| 貫名菘翁 書道教室TOPページ 9月号 日下部鳴鶴の課題解説 中本解説 書との出会い |
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| 漢字半紙 1級〜5級の9月号課題
白玉井銘(しらたまいのめい) 菘翁63歳の書、かつての京都左京区神泉苑街にあった.京都一の名水。 「白玉井」のために作った銘文です。 11月の課題
下記ポイントを捕らえて臨書ください
用意周到の書、絹布(けんぷ)に古墨で認め、風品淡雅な趣き、清勁な筆致 下記作品からも感じ取ってください
下記菘翁の生涯環境を 理解しながら意臨の参考にして下さい |
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| 貫名菘翁(1778〜1863)は阿波(徳島)の生まれで、名は苞(しげる)、字は子善(しぜん)・君茂(くんも)などがありました。号は、海客(かいかく、40〜70歳頃、一説に17歳頃〜70歳)・海屋(かいおく、60〜70歳頃多用)・海叟(かいそう、60〜70歳頃)・菘翁、摘菘翁(すうおう、てきすうおう、70歳頃から晩年)というように、年齢とともにたびたび改めていきました。 「幕末の三筆とされている」 ・市河米庵(いちかわべいあん、1779〜1858) ・巻菱湖(まきりょうこ、1777〜1843) ・貫名菘翁(1778〜1863) |
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| 海屋は、少年期より漢籍を学び、高野山において書を学び。吉井家の遠祖である貫名(ぬきな)に改めます。 30代半ばの頃には、京都に移り儒学者として名を知られ、 40代半ばの頃には詩人としても知られるようになります。 59歳のとき京都の木屋町二条に居を構えます。 70歳のとき『皇都書画人名録(こうとしょがじんめいろく)』に書家・儒学者・詩人として名があげられ、 晩年の菘翁は、京都富小路四条から木屋町二条南、衣棚下立売へと引越し、 71歳のときは岡崎聖護院に移りました。この辺りの土地の野菜である「菘‐とうな」から「菘翁」の号は付けられているそうです。 75歳では『鑒禅画適(かんぜんがてき)』に画人の名家として載せられて、このころから詩・書・画をよくする文人としての海屋がひろく認められるようになったものと思われます。 78歳の時に下鴨神社近くに引越し、 85歳の春に中風をわずらい口と手が不自由になり、翌年の文久(ぶんきゅう)二年(1863) 86歳まで下鴨神社近で書画三昧の生活を送りました。亡くなる 海屋にたいする後世の評価はたいへんなもので、「江戸の米庵(べいあん)、上方(かみがた)の海屋。」とよばれ。米庵とは、市河米庵(いちかわべいあん 1779―1858)のことで、門弟五千人をかぞえたと伝えられる大書家でした。また「幕末の三筆」として巻菱湖(まきりょうこ 1777―1843)・市河米庵とともに幕末三大家にあげられる。 のちの明治の日下部鳴鶴(くさかべめいかく)は、海屋を絶賛して私淑したことは有名なことです。 初出/『玄筆』66号参照 |
作品紹介
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印は「君茂氏」 、「摘菘老圃」 楕円の関防印は「一犂春雨」 です。 |
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| 参考文献『近世日本の書聖・貫名海屋‐館蔵コレクション』 堺市博物館編集・発行 1992 | ||||||||
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海屋貫名苞、行草書七絶(江戸時代、AD1778〜1863)![]() 紙本肉筆・・縦133cm、横28cm 「菘翁」の下に、陰刻(白文) 「君茂氏」と「摘菘老圃」の落款 |
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| 菘翁の作品との出会い 下記に紹介する貫名菘翁の作品は昭和50年ころ、松坂屋銀座店にて「九州の骨董市」が催され、当時銀座勤務の時代、昼休みの散歩中に見つけたものです。 値札価格からすると、長崎の骨董屋さんは菘翁の偉大を知らず、名のない作家と思ったのでしょうか! 私は学生時代、石橋犀水先生の書斎にお邪魔すると 2階書斎の床の間には、下記写真右上に見えています様に四季折々に書の軸物が飾られていました。 若い私はまだ作品の価値が判らず拝見していました。菘翁の揮毫作品が飾られていることもあり (絹布)淡雅、清勁な筆致の作品などが今でも脳裏にあります。脳裏に残っている理由は、絹布のせいか 線質と独特の墨色、にじみなどが、紙にて揮毫練習している私にとって到底近寄りがたい印象があったからです。
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菘翁苞(すうおう しげる) |
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淡雅 【たんが】:
あっさりしていて品のあるさま。
清勁【せいけい】
清らかにすがすがしく張りつめたさま。
勁 【けい】
ぴんと張りつめて、つよい。力がつよい。
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