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大久保公神道碑の解説 歴史の中の「書」26田宮文平の一部引用しています
日下部鳴鶴は、楷書は鄭道昭、草書は書譜、隷書は張遷碑などを学び、新感覚の書風を確立し″鳴鶴流″として一世を風靡した。その最高傑作が青山墓地にある大久保公神道碑である。
この建碑は勅命によって、伏見宮貞愛親王(ふしみのみや さだなるしんのう)が篆額を題し、本文は重野成齋(しげの せいさい)が撰文、書は大久保利通と縁が深く、当時、第一人者といわれた日下部鳴鶴に勅命が下ったのである。鳴鶴はそれまでにも数多の碑を書いているが、勅命かつ恩顧を被った大久保公の神道碑であったから、加賀山中温泉の大倉財閥の別荘を半年にわたって借りうけ、齋戒沐浴して取り組んだ。
書風は、北朝の鄭羲下碑、張猛龍碑、高貞碑等に加えて、初唐の歐陽詢、虞世南等の整斉な格調を参酌して畢生の書業を目指した。全文二九一九字の巨碑であるから字体等に誤りがあってはならぬと慎重を期し、草稿が出来あがると、宮内省所属の学者の校閲を願い出た。楊守敬から日下部鳴鶴らに伝えられた廻腕法は、懸腕法の一種で、四本指を前方にかける四指斉頭の法で、これを鳴鶴は神田温恭堂製の羊毫の超長鋒筆「長鋒快劔」、「一掃千軍」でみごとな書が生まれたのであった。
私は学生時代で石橋犀水から鳴鶴を学んでいる時、御茶ノ水エリアの文房四宝専門の『玉川堂』『清雅堂』『温恭堂』に立ち寄っていた。
『温恭堂』の鳴鶴揮毫の看板に出合った時は感動したものです。当時は木造二階建で正面に100年以上風雨にさらされてきたのでしょう、現在は高層建築変わり奥位に大切に飾られています。
当時が懐かしく30年振りに温恭堂を尋ねたが盆休みで閉店でしたが撮影してきましたので紹介します。

( 2010.8.19撮影 RICOH CX2利用 暗くて斜め補正使えず )
鳴鶴は温恭堂製の「長鋒快劔」「一掃千軍」にて大久保公神道碑を揮毫した事を知り
看板の関わりが理解できました。一度この筆で鳴鶴を臨書してみたいものです。
100年以上の風雨に穿かれ 関防印、落款印は損傷大でした。 |
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