日下部鳴鶴の紹介   漢字半紙課題
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不二誌 10級〜6級の課題

  大久保公神道碑の臨書
11月の課題
読み:右大臣(従一等)ヲラル
うだいじんじゅういっとうをおくらる

 



昭和47年3月撮影の写真です
青山霊園)

10月の漢字半紙課題です

 

(参議内務))



9月の漢字半紙課題です
日下部鳴鶴の作品や鳴鶴の偉業を理解しながら臨書しましょう。

   

----- 参考文献 -----
   


大久保公神道碑 


日本書道教育学会
昭和47年度3月限定版発行
15,000円


私は46年度、学卒入社の初任給が
43,000円の時代。日下部鳴鶴に魅了されその翌年給料の約40%弱をはたいて購入した大切な蔵書です。
 

左の部分拡大
 


 

日下部鳴鶴(くさかべめいかく) 1838〜1922 天保9年8月18日生〜大正11年1月27日没、85才

書家 彦根藩士、田中惣右衛門の次男として江戸藩邸で生まれる。 初名八十八、三郎、内記等、後に東作と改める。号は鳴鶴、晩年には野鶴、老鶴等の別号も用いた。22才の時、彦根藩士日下部三郎右衛門の長女と結婚、日下部家を嗣ぐ。幼時、実兄から巻菱湖(まきりょうこ)の真跡手本を借りて書を習う。明治初年31才の時東京に招かれ、新政府の太政官小書記官から大書記官に進み正五位に叙せられる。三条実美(さねとみ)や大久保利通(としみち)の信任、恩恵を受ける。

大久保利通
が11年暗殺されるに至って、大きな衝撃を受け世はあまりにも哀れで無慈悲であり。この社会に左右されていては所詮
哀れの人に終わるかしかない。日下部鳴鶴は、翌年12年になると一大決意を持って官を辞して野に下ることを覚悟し書道研究に専念、明13年来日した中国の楊守敬(ようしゅけい)に啓発され、特に北碑の書(六朝書)を研究、明治、大正の書道界を風靡し、世に「鳴鶴流」と称され、我が国の書道界に残した功績は非常に大きい。

大久保公神道碑の解説          歴史の中の「書」26田宮文平の一部引用しています

日下部鳴鶴は、楷書は鄭道昭、草書は書譜、隷書は張遷碑などを学び、新感覚の書風を確立し″鳴鶴流″として一世を風靡した。
その最高傑作が青山墓地にある大久保公神道碑である。

 この建碑は勅命によって、伏見宮貞愛親王(ふしみのみや さだなるしんのう)が篆額を題し、本文は重野成齋(しげの せいさい)が撰文、書は大久保利通と縁が深く、当時、第一人者といわれた日下部鳴鶴に勅命が下ったのである。鳴鶴はそれまでにも数多の碑を書いているが、勅命かつ恩顧を被った大久保公の神道碑であったから、加賀山中温泉の大倉財閥の別荘を半年にわたって借りうけ、齋戒沐浴して取り組んだ。

 書風は、北朝の鄭羲下碑、張猛龍碑、高貞碑等に加えて、初唐の歐陽詢、虞世南等の整斉な格調を参酌して畢生の書業を目指した。全文二九一九字の巨碑であるから字体等に誤りがあってはならぬと慎重を期し、草稿が出来あがると、宮内省所属の学者の校閲を願い出た。楊守敬から日下部鳴鶴らに伝えられた廻腕法は、懸腕法の一種で、四本指を前方にかける四指斉頭の法で、これを鳴鶴は神田温恭堂製の羊毫の超長鋒筆「長鋒快劔」、「一掃千軍」でみごとな書が生まれたのであった。

私は学生時代で石橋犀水から鳴鶴を学んでいる時、御茶ノ水エリアの文房四宝専門の『玉川堂』『清雅堂』『温恭堂』に立ち寄っていた。
『温恭堂』の鳴鶴揮毫の看板に出合った時は感動したものです。当時は木造二階建で正面に100年以上風雨にさらされてきたのでしょう、現在は高層建築変わり奥位に大切に飾られています。
当時が懐かしく30年振りに温恭堂を尋ねたが盆休みで閉店でしたが撮影してきましたので紹介します。 


( 2010.8.19撮影 RICOH CX2利用  暗くて斜め補正使えず )

鳴鶴は温恭堂製の「長鋒快劔」「一掃千軍」にて大久保公神道碑を揮毫した事を知り
 看板の関わりが理解できました。一度この筆で鳴鶴を臨書してみたいものです。
100年以上の風雨に穿かれ 関防印、落款印は損傷大でした。

 


 
同時代双璧の中村不折ですが
当時の大御所で正統派の日下部鳴鶴と中村不折は、談書会でもたびたび書道観の相違から対立し、遂には不折の六朝書研究を邪道とまで指弾するに至り。これに対し、中村不折らは明治45年(1912)に龍眠会を結成し、日下部鳴鶴らの主張に反発し、これに賛同した俳人の河東碧梧桐らは、あえて奇態な書をかいて烽火をあげた。そして、行きつくところ、鳴鶴が温恭堂に超長鋒の「長鋒快剱」をつくらせれば、不折は筆匠平安堂に短鋒の「龍眠」をつくらせて対抗するまでに至ります。

平安堂を尋ねてみました。
3代目社長の奥様と少しお話が伺えました

後日紹介ページを作ります。
下記写真は平安堂さんの店の暖簾です。


 

河東碧梧桐の書




平安堂 店内の中村不折の書
 




街中で中村不折の作品を発見

私は現在健康の為自転車で街中を走っています。
三田2丁目の慶応大学近くで気になる字の看板を発見
近づいて落款を見て納得、中村不折の作です。
不折の刻字作品は初めて拝見すばらしいですネ!
 (2010.8.19撮影) 



RICOH cx2で撮影 斜め補正機能でこんな立派な写真が取れたのです。

 
大坂家さんこの作品は、家宝として屋内に入れるべきでは・・・
店内に人影がなく声をかけず去る。

改めて昔のお話を伺いたいものです。
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津田永忠碑
日本書道教育学会 書学名蹟選より紹介
 

かくして明治四三年(一九一〇)、鳴鶴七三歳のときに完成、その雄渾かつ明快な楷書は一代の傑作と称えられて、その後、いわゆる鳴鶴流の典範として今日の書(壇)へも伝えられることになったのです。

後楽園の津田永忠碑は、六朝の模範的楷書といわれる高貞碑(こうていのひ)風であるが、それを凌いで鳴鶴流の楷書の完成を示し、数ある鳴鶴の碑の最高傑作といわれる大久保公神道碑と併称される名品である。

彼独自の書風確立への過程を示す画期的な作品で現在も書道界に於いて高く評価されている。
尚、真跡本には文字の欠落した部分があり、完全に残っている鳴鶴の書体はこの永忠の碑のみである。永忠碑は将に人、文、書とすべて揃った、所を得た名碑である。因みに碑石は讃岐の庵治石である。


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